名前の無い彼女は結構外出を好む性質だ。
などと言うと、霧雨魔理沙などは疑問符を浮かべるかもしれない。――だってお前、図書館以外であいつを見たことないぜ? という魔理沙の主張はまあ説得力がある。
しかし、ページをめくる以外の作業を世界から放逐したいと考えているに違いない図書館の主ですら呼ばれれば宴会に参加するわけであるからして、取り立てて地縛霊というわけでもない彼女が地上に出ることが無いと考えるのは早計ではなかろうか。要は暇の問題である――蔵書やら病弱少女やらの管理で彼女は日々忙しいのだ。ちなみに報酬は無いしもちろん有給休暇も無い。そんな境遇に文句のひとつも言わないあたり、彼女もたいがい便利な存在である。
もっとも、そのようなことを彼女に告げたら、心外だ、と目を丸くされるのが落ちだろう。
好きでやってることですし、それに、この館に住んでる人なんてほとんどが私みたいなものでしょう――と。
そんなたまの暇を得た彼女は今、眼前に展開される非常識な光景に言葉を失っていた。
や、なにもわけのわからないことがおきているわけではない。それは十分に常識の範疇でとらえられる出来事だった。
だがやっぱり非常識なものは非常識だ。理解できようができまいが起こりそうもないことが起きたからそれを非常識というのだ。
――瀟洒を旨とする紅魔館の廊下を雑巾がけするメイドなど、ついぞ見たことが無い。
一瞬見間違いかと彼女は思ったが、用途が同じとはいえどう考えてもモップと雑巾は別個のものであって、それを見間違えたとなれば一刻も早く医者にかかる必要がある。もちろん眼科ではなく。
彼女は一度深呼吸をすると、右手に持ったものを見た。これは本だ。
周囲を見渡した。ここは紅魔館だ。
では、あれはモップがけか?
やはり雑巾がけだった。
軽快な足音を立てて無闇に長い廊下を往復している。
しかもよく見ると大きいゼリーのような物体(あまつさえその頭部? にはひらひらと揺らめくメイドの証が乗せてあったりもした!)が随伴し、一緒に雑巾をかけている。なんだかよくわからないけど作業時間が半分になってうらやましいと彼女は思った。
しかしどうやって雑巾を持っているのだろうか。謎だ。
首をひねりながら彼女が振り返ると、そこには見知った人物がいた。
「あ、こんにちは美鈴さん、休み時間ですか?」
紅魔館の門番、紅美鈴は、や、と片手を上げたあと、まあそんなとこ――と答えた。
「あの子のことが気になってね……」
あごで示した先は無論雑巾がけ中のメイドである。視線に気付いたメイドは一旦足を止めると一礼した。反射的に二人も礼を返す。
メイドはにこりと笑うと、腕まくりをして再び汚れとの戦闘を開始した。
「お友達なんですか? 見たことない人ですね」
メイドのほうに顔を向けたまま彼女が問うと、美鈴はうーん、と眉根を寄せた。
「友達って言うか……まあ、知り合いではあるかな。昨日来たばっかりだから知らなくても無理はないわ」
「昨日……ああ、それで」
「うん、割と何でもできるっぽいから咲夜さんも色々任せたみたいだけど」
そのメイドはちょうど雑巾をかけ終わったらしく、爽やかに手の甲で額の汗をぬぐっていた。傍らでは例のゼリー状の物体がこれまた原理不明だが雑巾を絞っている。あれいいなー欲しいなーと彼女は思った。さわり心地がよさそうだ。
バケツを片手に――また別の廊下の雑巾がけに取り掛かるのだろう――すたすたと歩いていくのを目で追いつつ、紅魔館の住人たちはぼそりと呟いた。
「手際いいですね……」
「……先は長そうだけどね」
そして二人はぼんやりと彼女の今後について思いを馳せるのだった。
そこからさほど離れているわけではない、ある部屋。
「咲夜、今日は天気が悪いわね」
窓の無い部屋のベッドに腰掛け、寝巻きに袖を通しながら主は言った。
「さようでございますわね……雲ひとつない青空で」
紅魔館のメイド長十六夜咲夜は、す……と主の前に回り、失礼いたします、と断りを入れてから優しく下から順にボタンをかけ始めた。
それに対してどうという反応を見せることもなく、主は続ける。
「時に咲夜。あれは一体どういうつもりなのかしら?」
咲夜は手を止め、小首をかしげる。
「あれ、と申しますと」
「あれと言ったらあれに決まっているでしょう。ついさっきも部屋の前を騒々しく雑巾がけしていった新人のことよ」
咲夜はああ、と声を上げ、渋面を作った。
「申し訳ございません……どうも前の職場はこことはだいぶ作法が異なっていたようでして。教育して改めさせます。ええ、やる気は十分あるようですので」
「そっちじゃないよ。わかっててとぼけない」
「……さて? 人事に関しましてはお嬢様より一任させていただいておりますし、来るもの拒まずという基本方針に従ったまでですが」
何かご不満な点がございましたでしょうか? と言う咲夜の眼を主は見つめ、やがてふん、と鼻息を漏らし続けなさいと指示を出した。咲夜の手が再びボタンをかけ始める。
「今のところは咲夜のたくらみに乗ってやるよ」
「何のことかわかりませんが、ありがとうございます。……さあ、お召しかえが済みましたわ」
完璧な従者は完璧な笑みを浮かべ、そしてボタンをかけ終えた。主はそれを確認すると、小さなあくびを一つしてベッドに寝転がる。
「お休みなさい咲夜。また夜に」
「お待ちくださいお嬢様。まだ歯を磨いていませんわ」
「……咲夜は時々妙に小うるさいな」
レミリア・スカーレットは嫌そうな顔をして、しぶしぶ体を起こした。
Continue to――「従者、侍女になる 〜 I and You」