
その不思議な建物の店は、魔法の森の程近く、人のあまり訪れない道の先にひっそりと佇んでいる。
周りを見渡せば、緑に繁る木々が立つばかり。時折聞こえてくるのは森に棲む獣や鳥の鳴き声だ。商売というものは客が来なくては話にならぬというのに、人気のひの字も見えぬような僻地である。
自然に溢れる景色は確かに見る者の心を豊かにし、日々の生活に潤いをもたらすだろう。
だがここで商いを営むとなると話は別だ。この『香霖堂』と書かれた看板を置く古道具屋の主は、中々の変わり者に違いない。
そしてまた、こんな辺鄙な場所に建つ古道具屋にやって来る客というのも、店主に劣らず変わり者である事は、疑うべくもない事なのだ。
ふう、と大きく溜息を吐いて――――森近霖之助は手にしていた読みかけの本から目を上げた。
今日はこれでもう何度目の嘆息だろうか。朝からこっち、気付くと何かにつけて溜息を漏らす自分がいる。
そんな事実にまた一つ、霖之助は重い息を落とした。
気が重い。本を読んでいても、内容が頭に入ってこない。
荒物、金物、古書、着類、骨董、そして魔具や呪具、魔道書。さらにはこの店の売りでもある、幻想郷の外の世界の不思議な品々。
それらは堆く積み上げられ、又は並べられ、又はひしめき合い、混沌としつつもどこか落ち着いた雰囲気を醸し出す奇妙な店内を形作っている。
そんな品々に眩い日の光を投げ込んでいた窓を、ふと霖之助は見た。
「……そろそろ、だな……」
言葉にすると尚の事気持ちが沈んでいく。そう、まるで窓の外に見える太陽の様に。
森近霖之助は、参っていた。かつて無い程に、参っていた。
原因は単純明快に判明している。
いっその事原因不明の憂鬱の方がどれだけ心安らぐだろうかと思える程に、判明してしまっている。
日の落ちようかというこの時間になると、やって来るのだ。心労の種が。
正確には、心労の種達が。
霖之助は大きく肩を落とし、また一つの溜息を落とした。
俗に溜息を一つすると幸せが一つ逃げると言うが、あれはきっと嘘だ。
何故なら、もう幸せなどとうに底を尽いているにも関わらず、溜息だけは際限なく出てきてしまうのだから。
――――カランカラン。
霖之助が自らの思考に力なく苦笑したのを見計らっていたかの様に、香霖堂の玄関口が開いた。
「香霖、いるか? いなくても邪魔するけどな」
少女の、鈴を転がした様な可愛らしい声が、しかしどこかぞんざいな口調を持って香霖堂に響き渡る。聞けば随分と身勝手な言い分ではあるが、これはいつもの事だ。
――――来た。
店の番もそこそこに――店主自らも客の来る事など想定していないのだ――読書をしていた霖之助は、聞こえてきた声に身を竦ませた。
ひょっとしたら今日は来ないかもしれないなどという、希望的観測に満ち満ちた儚くそして淡い、幻想の様な期待はこの瞬間、微塵に砕け散った。
声にやや落胆の色を滲ませつつ、霖之助は少女に応える。
「ああ、いるよ。しかし毎回言っているが……」
「勝手に上がって来るな、だろ? いい加減聞き飽きたぜ」
「飽きるほど聞く言葉じゃないだろうに。まったく」
「それなら飽きるほど言うセリフでもないな。学習しろよ香霖」
傍若無人に極まった言葉を吐きながら、少女は――霧雨魔理沙は、もう半ば彼女の指定席となりつつある、埃を被った売り物の壷の上に腰掛けた。
まあ、いつもの事だった。
魔理沙が客として香霖堂にやって来る事は滅多に無い。その目的の大半はひやかしである。
昔から香霖堂の数少ない常連ではあった魔理沙だが、『ある日』を境に、彼女はほぼ毎日のペースで香霖堂を訪れるようになった。しかも決まって夕暮れ時に、だ。
霖之助の額に手が伸びる。
悩みの種の半分が来てしまった。こうなってはもう残りの半分が来ない事を天に祈るしかない。
彼女が来ない可能性もまた、魔理沙が来ないのと同じくらいに絶望的な低さではあると理解していても、霖之助は祈らざるを得なかった。
そう、彼女達が一人ずつならば、それは霖之助にとってさしたる問題ではないのだ。
それはいつも通りの苦労でしかない。
振り回されるのには慣れている。元々霖之助は自ら率先して物事を起こすタイプの人間では無い。流されて動く方が性に合っていると自覚もしている。
だがそれにしたって限度ってものがある。
例えば、或る人物が誰かに片腕を掴まれ、思うが侭に振り回されても少々目が回るだけだ。その或る人物が我慢強ければ十分に耐えられる範疇だろう。
しかし、である。
もしそこでもう片方の腕を、別の誰かが掴み逆方向に振り回そうとしたら。
しかも、振り回す両者が共に一歩も譲らず、手加減無しの全力になってしまったのなら。
果たして、振り回される或る人物はどうなるのか。
答えは明確だ。
――――つまり、死ぬほど痛い。
かち、かち、と店内に備え付けの柱時計が立てる針の音に合わせる様に、魔理沙の脚が所在なさげにゆらゆらと揺れ動く。豪快な性格やさばさばとした言葉遣いとは裏腹に、華奢で小柄でいかにも少女といった体躯の魔理沙は、大きな壷に腰掛けると床に脚が届かない。
いつも通り、勝手に売り物の本を取り出し読書に耽っていたはずの魔理沙は、ふと霖之助が気付くと、じっと窓の外を見つめていた。
「……何をしてるんだい」
「別に。そろそろ日が暮れるな、と思って」
「そうだな、日が暮れる。普通の女の子ならもう帰る時間だ」
「まだ何も買ってないし本も借りてないぜ」
「買うつもりも無いくせに何を言ってるんだ。それにうちは図書館じゃない」
それとなく霖之助は魔理沙を家に帰そうと試みるが、霖之助の考えなんて魔理沙は既にお見通しである。
お見通しであるからこそ、魔理沙の機嫌は悪くなっていくのだ。
つい、と魔理沙は霖之助から視線を逸らし、今度は傍にあった小さな壷を手に取って弄り始めた。
霖之助は今日一番の大きな溜息を吐いた。本を置き、立ち上がり魔理沙へと向き直る。
魔理沙は一体何が気に入らなくてあの娘につっかかるのだろうか。『あの日』から毎日、魔理沙がこの時間にやって来るのは間違いなくあの娘に会う為だ。
もうすぐやって来る、宵闇を纏ったあの娘に。
「…………はあ。何でこんな事になってるんだろうな…………」
霖之助の問いに答える者はいない。
魔理沙には霖之助に答えるつもりなど微塵もない。その問いが霖之助から出てくる時点で、魔理沙はこの莫迦には何一つ教えてやるものかと思い、同時に間もなく来るであろう宵闇の少女がこの莫迦を諦めるまではここに通い詰めると確固たる決意をした。
その時だった。
香霖堂の玄関口に、人の気配が現れたのは。
とんとん、と扉を叩く小さな音。
香霖堂を訪れる少ない客の中で、一々正直に扉を叩くような者は、さらに限られた幾人しかいない。
霖之助は天を仰いで嘆いた。
魔理沙は腰掛けていた壷から降り立って扉を睨みつけた。
ああ――――
今日もまた、
来てしまった。
良く笑い、
良く泣き、
良く騒ぎ、
良く怒り、
良く引っ掻き回してくれる。
滅茶苦茶な、
まるで酔夢の様な、
宵夢の時間が。
始まるのだ。
「こんにちは。今日も来たよ、霖之助っ!」
Seven Dazzling Tales
The 5th tale……
「Twilight is radiant with happiness!」
start.