ここは私に任せてみんなはもう寝なさいと言ったのに――永琳は密やかに溜め息をつき、だけど足を止めて繰り返すつもりもなかった。微笑を浮かべて黙殺する。
静やかな足運びは、目的地の前で一旦止まった。
中庭に面する縁側は、雨戸が細く開かれていて、月光がうっすらと屋内へ染み入ってきていた。月光と共に、冷ややかな初冬の寒気の侵入をも許してしまっている。気が付けば吐く息が白く染まっていた。その白い呼気も、吹き込んできた鋭い風にすぐさま散らされていった。
そして、氷室のような中庭の中央に、鈴仙が立ち尽くしていたのだった。
こちらに背を向け、鈴仙は夜空に浮かぶ月を見上げていた。木枯らしに抗うかのような直立の姿勢で、いつもはへにゃりとしなびている耳までも、ぴんと緊張している。
波動の送受信姿勢だ――月兎の生態をよく知る永琳は、ひと目で察した。
鈴仙が同胞からの波動を受信したと、てゐは言っていたが。どうやら本当らしい。それで兎たちはかつての変事を思い出し、鈴仙が月へ帰ってしまうものだと考えたのだろう。
永琳は空に細い弧を掛けている月を睨んだ。
「さて……どういうことなのかしらね」
訝るように軽く首を傾げると、雪駄をつっかけ、中庭へと降りる。背後の兎たちは屋外にまではついてこなかった。雨戸の陰で逡巡しているらしき気配が伝わってくる。
「ウドンゲ」
歩み寄りながら呼びかけると、弟子はびくりと肩を震わせて、ゆっくりこちらを向いた。振り返る間の一瞬、その目に月光が映りこんで、瞳の潤んでいることを伝えてきた。
「ししょ……ぉお?」
永琳の姿を目にして、鈴仙は素っ頓狂な声を上げた。がばっと頭を抱える仕草をする。
そんな弟子の隣に何食わぬ顔で立ち並び、永琳は今一度、月を見やった。遠い昔に棄てた故郷は、空の中央に放り出され、身を細くして縮こまっている。
あそこではまだ、争いが続いているのだろうか。そして今また、地上へと逃れてきた罪深くも臆病な同胞に、参戦を求めているのか。
恐らく違う、と永琳は直感する。ただの勘だが、されど天才の勘だ。
自らの勘はさらに語る――しかしあの空の向こうで何かが起こっていることは確かだと。
果たしてそれは、自分たちに看過することが許される類のものなのかどうか。あるいはまた、これをきっかけとして、あの永夜事変にも劣らぬ騒動が起きるのかもしれない。
もしそうなれば。その中で鈴仙は、そして自分は、どのような役割を果たすこととなるのだろう。永夜の時のように棄てたはずの過去を突きつけられ、何らかの清算を求められるのかもしれない。
あの変事では結局、自分たちは新たな世界を知り、知己を得た。今度も何かを得られるのだろうか。それとも……逆に失うこととなるのか。
答えを知るのは、遥か空の彼方の存在のみ。永琳は自分たちの運命を見通すべく、弟子と並んで、虚空の声に耳を傾ける。
遥かな遥かなそらを越えて、それは冬の夜に訪れたのだ。
『母を訪ねて十万里 ~Jump into orbit!~』